こひがしブログ

生きにくい日々を幸せに生きるため試行錯誤する記録

子どもは親になにを言ってもいい

少し前、個人が配信するラジオアプリで、性教育についてふれられていました。そこで印象に残ったのが、小さな子どもへの性犯罪のお話。子どもが体を触られるなどの性的被害にあった場合、それに気がつかなかったり、恥ずかしいと感じて言えなかったりすることがあるという内容でした。その内容自体も興味深く、日頃から子どもは親に何を言っても良い、親に言って恥ずかしいことなどないと理解させ、あれ? おかしいなと思ったことがあれば、親に報告できるようにしておくことが大切なのだと感じたものでした。

そこでふと、私は母になんでも言えた関係だっただろうか。いや、性犯罪に巻き込まれるようなことがあった場合、相談なんてできなかっただろうと思ったのです。

 

そんな具合に、母との関係を見つめ直すようになったのはここ半年くらいのことです。

母との関係を考え始めるきっかけ

以前のブログにも書きましたが、私は子育ての難しさや夫への暴力モラハラに悩み(私が暴力やモラハラを行うのですから、悩むのなら暴力やモラハラをしなければいいのですが、どうにも制御できなかったのです...)、通院を開始。ADHDの傾向や双極性障害の診断を受け、生き方の工夫を試みることになりました。

当初、夫へのDVや育児が辛いことなどは、ひとつひとつがバラバラの事象として困っていました。何か私の中に全ての根となる原因があり、私自身が解決できるものだとは考えていませんでした。自分自身の問題だと捉え、改善しようという気持ちもなく、問題を抱える自分を甘やかし、どこか開き直っていました。

それを考え直すきっかけとなったのが、田房永子さんのコミックエッセイ『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』です。「女性のDV」「書籍」などのキーワードで検索して行きついたのだと記憶しています。著書自身の日常が綴られているのですが、自分とそっくりで驚きました。夫を責める、時には殴る...。著者は問題に感じたことを自分なりに解決していくのですが、そこで母との歪んだ親子関係が示唆されています。私はこれを読むまでは、DVやモラハラ、育児が、その個別の事象とは直接繋がらない、自分自身の問題を見つめ直すことで解決するとは、心からは思えていませんでした。夫婦双方の問題であったり、仕事と育児の両立の難しさ、社会からの疎外感など、様々な外的要因によるものだ、などと色々言い訳がありました。

しかし、本を読み客観的に自分を見つめます。自分に問題があるのかもしれない、しかも私の周りでおこる不満の数々は、私自身が作り出しているものなのかもしれないと、新たな視点が生まれてきました。

母との関係は正直良好だと思っていました。仲良し親子だろうくらいに。離れた実家の母からは、毎日のように電話がかかってきますし、いざという時には私も相談の電話をついついしてしまいます。

ただ、私が本当に話したいことや言いたいこと、聞きたくないことを、母に言えているかと考えると、「忙しいから電話切っていい?」 ということすらできません。

『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』を読んでからというもの、母との関係について、どこかで引っ掛かりを感じていました。また治療など、状況を把握するためにも、自分について知ろうと思うようになりました。

発達障害に気がつかない母親たち』(星野仁彦 著)も大変参考になった書籍です。この本で特に私が感じたのは、特に私が傷つきやすかった可能性もあるし、母にとっても子育ては大変だったということ。そして今からでも私は私の生き方を見つめ直すことができるのだということです。

『毒になる親 一生苦しむ子ども』(スーザン・フォワード 著)も、いわゆる "毒親" なる親の元で、過酷な環境下で子ども時代を過ごしたことにより、大人になっても課題を抱えてその呪縛から逃れられない人がいるといった内容の本です。しかし、これにもまた、どこからでも自分の人生を取り戻すことができるという内容と、その手法が書かれていました。

方法としては、母との関係見直すということになりますが、私にとっては新しく手に入れた視点がとても重要だと感じています。夫や環境のせいで私お凝らされているのではなく、今の今まで私を作った私の固定概念やバックグラウンドが、そのような怒りを生んでいるのだ、つまり私の問題なのだという視点です。これは、そう考えることで、私の問題である部分に少しでもアプローチできるということで、状況が改善する可能性があるということだと感じました。

母を傷つけることは言ってはいけないと思っていた

私の母は、暴力を振るうわけではありませんし、ネグレクトなどをする子どもに無関心な親でもありません。反対に過干渉すぎるというほどでもないかと思います。なので、母のことはそれなりに好きです。しかし私は、もともと傷つきやすく、繊細な性格であり、感受性も豊かすぎたと言えるでしょう。なので、親の言動のあらゆることに大きく影響を受けすぎてしまった可能性があると思います。

私は、母が怒りそうな事や、傷つきそうなことは言わないようにしてきました。そのために、自分のありのままの振る舞いには、いくつか母に好まれない点があると考え、これを見せてはいけないと考えていました。知らず知らず、我慢が蓄積していったと思います。

前述の通り、それほど非道な親だったわけではないのですが、いくつか記憶している、これは嫌だったなと思うことがあります。

  1. 毎日のように、母の知人や仕事の愚痴を聞かされる
  2. 私の友人について、あの子は常識がないなどと言う
  3. 小さな私をからかうようなことが行きすぎて、どんくさいことを茶化す
  4. 泣くなど手がつけられない感情に対して、「泣くな、いつまで泣いているの」「泣き止みなさい」などと急かす

1.母の愚痴を聞いていると、母が良くないとする性格や行動が暗にわかるようになります。母が言ったことがモラルの全てである幼少期、この裏を返し、母が嫌がっているのだから、このような行動をとる人間とは悪である、私の中にあるこのような悪い行動や思いは正さねばならない、見せてはならないと考えます。

2.母が負のイメージを口にした友人、この子とは遊ばないようにしよう、もしくはこっそり遊ぼうと思います。しかし、ちょっとだけ嫌〜な気持ちが心に燻ります。

3.人にバカにされるこのような振る舞いは改善しようと考えます。同時に、ある特定の行動をとるどんくさい人は、馬鹿にして良いということになります。

4.涙は抑えようとすればするほど溢れてきて、泣きそうになるのをコントロールすることはなかなか難しく、泣くたび情けない気持ちになります。

 

私はこれらの母に好かれる基準のルールを実は今もどこかに抱えています。しかし、本当は違うよな、嫌だなと感じるようにもなっているのです。その気持ちを徐々に出すことにしました。

特に1.に関してですが、あるときの電話で、母が親戚の愚痴を語り出しました。共通の知り合いですし、これは母の一方的な意見だな、という思いもあり、聞いているのが苦痛になりました。

良い機会だと思い、あまり人の悪口を聞かされたくない。という旨を思い切って伝えました。電話でそのままは言い出しにくかったので、電話を切った後、LINEで伝えました。

すると意外にもとても真摯に

「それは本当に申し訳なかった」と返信がありました。気持ちが穏やかになる反面、なんだか母がかわいそうにも感じました。ここからは私の問題なのですが、嫌なことを伝えることができないと、私が嫌な思いを抱えます。その後、私の場合、娘や夫に当たってしまうことが考えられるため、これはとるべき行動だったと覚悟を決めることにしました。

散々母からの影響を語っているくせに、父の影響について言及しないのは不自然なのですが、父は仕事ばかりしているような人で、共働きにも関わらず、母に比べ私との接触が圧倒的に少なかったと記憶しています。このような事実だけでも、両親の家庭内での役割の不平等さを私に見せつけてきた父は、間違った教育をしてきたと言えます。また、父のしつけには昔ながらの問題のあるものもいくつかありました。大声で怒鳴って小さな子どもに言うことを聞かせようとする、駄々をこねるようなら、押入れに閉じ込める、お尻をたたくなどの罰を与える。というように、本当に昔ながらの父です。しかし、これが直接私のトラウマになったというよりは、その際、やはり優しく助けてくれるような人がいて欲しかったと思うのです。それもやはり求めていたのは母ということになってしまうのです。

子どもは親になにを言ってもいい

親になんでも相談できたりはせず、思ったこともなんでもは口にできず、自分のある面しか見せることができないと考えている私は、結構厄介な人間でした。

日頃隠している自分が出てしまわないかいい子ぶっています。どうしてもいい子になれず、素が出てしまう時には必要以上に動揺したり、腹を立てたりします。時には嘘を着くので、親にバレないかビクビクしています。

私は10代の半ばにはタバコを吸い出し(これは結局バレるのですが)、後にはお酒にもかなり依存し、10代の頃から性にも割と奔放でした。身体や心が傷つく可能性のあることもしますし、異性関係のトラブルも多くありました。それらは基本的には親に知られたくないことです。まずそのようなことに身を投じてしまうことにも今であれば問題を感じます。

そう、本当に困った時には親に相談できない。こういうことが実際にあるということを、私を身をもって知っています。

 

幼い頃の私はどう感じていたんだろうと今思い返すと、やはりどんな私も母に受け止めて欲しかったのだなと思います。

ずるい私も、傷つきやすい私も、困ったことをする私も。良い子の私と同じように愛して欲しかったのだなと思うのです。きっと母は本心ではそう思っていたかもしれません。しかし、今当時の母の気持ちを引き出すのは無理なことです。人の気持ちを自分の思うように操作することはできません。

なので、自分を自分が受け止めてあげるしかないのだなと思います。

私には小さな娘がいますが、どんな娘も受け止めてあげることはできているのでしょうか。わかりません。