こひがしブログ

生きにくい日々を幸せに生きるため試行錯誤する記録

女性活躍の文脈に、ガツガツ頑張れない女性も含まれますか?

あるニュース記事を読んでいて、世界を股にかけて活躍するようなお仕事をされながら、2人のお子さんを育てたという女性へのインタビューがあった。

日本の女性活躍の現状について、男女の役割の刷り込みについて、危惧したものだ。海外に住み、仕事をし、パートナーも北欧出身のこの女性にとって日本は異常なほど、男女の役割の刷り込みがそこらに転がっていると感じられるそうだ。日本は保守的な抵抗勢力が非常に強い国、そのため悪しき文化が社会に根深く残っているのだと言っていた。

続けて彼女の話は、日本の企業のトップや政界など、指導的地位に女性がいかに少ないかという話に続く。大学医学部の入試の男女差別の問題においても言及し、優秀な女性をあえて登用せずにいる日本では、組織や自国の利益を損なっているにも関わらず、このような現状を維持しようとする。なんて愚かなのかという話だ。さらに、女性は諦めずにどんどん努力し、チャレンジングに未来を切り開くべきだとエールを送っていた。

これは本当におっしゃる通りという反面、そこで私が感じた違和感がある。

私はそんな優秀ではないし、自信を持って張り合えるスキルもないければ、さほど努力もしていない。「あ、これは私の話ではないな」と。

 

また、最近子育てに興味が湧き、活動をチェックしているワーママブロガーがいるのだが、彼女の発言にもやや置いてけぼり感を感じる時がある。

ある日の話題、彼女の知人で出産を期に退職し、子育てがひと段落ついたところで再就職に成功した方2名のケースを紹介していた。それも知人の一人は、8年ほどもブランクがある中で、再就職に成功したということにこのままブロガー自身感心していた。そこで、このような状況を手に入れることができた方法はというと、知人2人のいずれも縁故による再就職なのだという。元上司だったり、元同僚だったりが、当時の彼女たちの優秀さを知っていて、数年のブランクがありながらも彼女たちのポテンシャルで採用したという内容だ。さらに頑張っていれば見ていてくれる人がいるといった話をしていた。

社会で上手くやれていないという自覚がある私とって、この話にも何か居心地の悪さを感じてしまった。

 

前述の世界で活躍する女性の話に戻るが、確かに優秀な人たちが報われないのだから、それでは男女問わず国全体の不利益であるという論は非常に説得力がある。

大学医学部入試の男女差別問題に関してなどは、成績などデータにもとずく事実がありながら、女性と比べて成績の振るわなかった男子学生に下駄をはかせたというのだから、医学生のひいては医療のレベルだって損なわれかねない。こうなると全国民の不利益だ。

また、大企業や政界など指導的地位の男女格差についてが代表例として語られることについても、象徴的事例であるし、毎日メディアにさらされている情報として、男女役割の刷り込みにも大いに影響している。また、このようなピラミッドのトップの男女構成が変われば、日本全体に影響力があるため、まずは頂点の話がされるということも理解できる。

 

しかし、同時に、こんなに優秀な人たちにおける男女の役割だって乗り越えられていないのだから、ガツガツ努力したり、優秀さをアピールできない女性達になど、活躍の場などないのではないか、と考えてしまう。

人は皆それぞれに得手不得手があるけれど、仕事や学業などで、優秀と語られる時、それは人のある一部分においての優秀さの話であり、こうしてある一定の人が社会で活躍するものだ。

本当に人には様々な能力があって、それはただの女であること、女であって小さな子どもの育児中であること、出産を控えていることなどもその人を成す一要素だ。これももちろんその人の特徴というか経験、長所に結びつくことがある。

 

どうしてか、前述の2つの話が子どもを産んだら、女性に生まれたら、努力しなければ活躍できません、のぞみの仕事にはつけません。と言われているように感じてしまうのは私だけだろうか。優秀な女子についてのエールが、私へのエールではないのだなと感じてしまうのは私だけだろうか。