こひがしブログ

生きにくい日々を幸せに生きるため試行錯誤する記録

ADHDが自分を知るきっかけになったし、他者を知ろうとするきっかけになった

ある人から、自分はADHDかもしれないと相談を受けたことがある。私にシンパシーを感じたのか、何か私がそのようなエピソードを話していたのかわからないが、おそらく両方かもしれない。

彼女は私と同世代で、私が利用するあるサービスを提供する会社を経営している。

相談を受けた際、私自身がADHDであるという話をして、何か実際に問題が起きているのであれば、専門の病院に行ってみるのも良いと思うということを勧めた。

その後彼女は診断を受け、ADHDであるということになった。

 

それからしばらく、度々お会いすることやLINEなどでやりとりすることがあったのだが、あるとき、私が仕事の相談をしたことがきっかけで、お仕事を発注してくれることになった。

なので、今はその彼女が代表を務める会社から、仕事をいただいている。

その会社で仕事するようになり、彼女がADHDだと知っての私の先入観からか、私は彼女の言動に日々触れる中で、まるで客観的に自分を見ているようでとても勉強になるということに気がついた。

 

例えば、日常業務はオンラインのチャットツール、slackでやりとりをしているのだけど、メッセージのやり取りの中には、あれと思うようなことが度々ある。私との会話や、別のメンバーとの会話を第三者として傍観している際にもある。

その違和感とは、主語がない、メッセージした目的がわからない、指示内容がわからない、などの内容が不完全なメッセージが多かったりすることだ。

そのようなメッセージのやり取りをしていく中で、私は、わかるわかる! ここで冷静に文章を推敲するより、パッと浮かんだ考えを次の瞬間にはメッセージに流してしまうんですよね! とその行動のいきさつを想像し、勝手に大変共感してしまう。

 

また、ちょっとしたやりとりの行き違いですぐに怒ったりする。正確には、文面から、イラっと感が伝わる。そこでも私は、まぁまぁ、そこは落ち着いて。と大変気持ちがわかる。

 

さらに、ある日、mtgを控えた当日。日頃は基本出社の義務は無いような働き方をしている様子なのだが、この日は対面での会議を予定していたのだ。

彼女から「たけし」が風邪にかかり、自分も感染していたら困るし、社内のメンバーに感染しても困るので出社をどうしよう。といった内容がslackに共有された。こんな時だから、新型コロナの心配もある。といった内容。「たけし」はおそらくパートナーの名前だろうと私は推察した。今回は主語があった。

自分の私生活の問題も変に気を使うことなく、率直に相談できるし、困っている今の気持ちをオブラートに包むことなくそのとおりに伝えることができるのだ。

 

一般的な企業ではあまり見られないような人種かもしれないが、この行動を見ていて大変納得できる部分がある。自分がADHDと診断を受ける前は、はたしてこのような言動に理解のある見方をできていただろうか。

おそらく私は、なんか変な人として遠ざけていたのかもしれない。

また、彼女の特徴としては、自分のそのちょっとユニークな面を恥ずかしいとか隠そうとかあまり考えていないように感じる。

そのためか、それが魅力となり、メンバーからもかなり愛されていると思う。ともするとちょっとワンマンなところもあるが、そこは親しいメンバーに囲まれ、上下はさほど感じられないし、無理強いはしない文化のようだ。

不思議とそんな彼女には、苦手な面をよく理解し、サポートしてくれる良き参謀役もいる。良き理解者をよくぞ見つけるなと感じる。

私には、勝手に考えている人前で見せてはいけない自分の恥ずかしい部分というものがある。

以前の私であれば、これら恥ずかしい自分をさらけ出し、なるべくストレスのないよう、ありのままに振る舞う彼女が妬ましく、それが転じて疎ましく思ったかもしれない。

 

なぜ私は変わったのかと考えると、診断を受けたことで変な言い方だけど、自分の特徴をよく理解できたと思う。自分で認めることができなかった短所も含めて。

 

クリニックを訪れた最初の日、先生が私に言った。

「あなたは自分がどんな人間かわかっていない。『あなたどんな人間ですか? 』いう私の問いに、あなたは『ふうつの人間です』といいましたね。しかし、それは私の質問に答えたことになっていなくて、『怒りっぽい』とか『愉快な人間です』とかなんでも良いのですが、特徴を問う質問だったのです。あなたは自分の特徴をわかっていないので、『ふつうの人間』というしかなかったのでしょう。」また続けて、

「自分をわからないから、他者が自分と違うということもわからない」と。

 

前述の女性経営者に学ぶところは本当に多い。

自分の苦手なことや、変だと思われる性格を無理に抑えようなどとは思っていない。私の勝手な見方だけど、むしろ、自分のやりたいことに正直に生きているように感じられる。

 

私は、ADHDとはこうであるという、一定のパターンについてADHDの話をしたいのではない。

むしろ勝手な自分の落とし所だが、どんな人にでもいろんな性格や特徴があって、それはADHDの一人一人にも同じことが言える。

ただ、その中でADHDなどの発達障害や、もっというと障害と言われる人は、社会のこれでは生きにくいという特徴を医学的にラベリングされたということだと思っている。

その場合、例えば一般的に言われる長所、短所みたいな項目のより濃度を濃くしたようなことが、ADHDの困ったと言われる項目に当てはまるんじゃないかと思っている。

 

そこでなんの話かというと、自分がADHDと診断されるまでは、「ふつうの人」と表現した私が、普通ではなくなった途端、私は自分の長所や短所(便宜上この言葉を使う)を自覚することがやっとできたし、自分を自覚するということで、人の中にある自分と似たような部分を認識することができるようになった。また、人の自分と違う部分も認識できるようになった。

これってすごい進歩である。

 

私は自分をよく理解し、自分を受け入れようと考え始めたことで、人には人の色々があるのだということがよくわかった。理解し、受け止められているかはさておき。