こひがしブログ

生きにくい日々を幸せに生きるため試行錯誤する記録

子供はまっさらなキャンバスなどではなく、人格が備わって生まれてくる

子育てが辛い理由を日々いろいろと考えている中で、一点気が付いたことがある。

それは、私の出産する以前のイメージでは、子供はまるでまっさらなキャンバスかのような、大人の私よりもどこか初期段階みたいなところにあって、私の思い描いたように私にくっついてくる無個性なイメージがあった。

 

しかし、そうであれば人形と同じで、煩わされることはないのだが、しっかり人格を持っていることがわかった。大変煩わされる。

 

私のそのような子供無垢説の勝手な思い込みにより、勝手に子育てを大変にしている節がある。子供をどこか思い通りになる前提で考えていたのだ。無垢どころか、私が私の思い描くように子育てに真摯に取り組めば、何か社会の中にいるとても良い人、素直な人のような人間が出来上がると思っていた。

が、どうやら子供は既に結構人格を持っている。

私が怠け心を存分に発揮し、テレビを見ながら子供を放置していると、赤ん坊の頃ですら飽きたのか、空腹なのか、個性全開で自分の存在を主張してくる。

私だって人殺しや、虐待になるのは嫌なので、構わずにはいられない。

 

私は大人の友人たちに対しては、自分の思いをそこまで通そうとは思わない。思いが通らなくてストレスが溜まるようなら、あまり長い時間一緒にいなければいいのだし、そもそも付き合っているのが辛い人とは付き合わなければ良いと思っていた。まぁ、向こうも私に対してそのように接しているだろうという期待もある。

または、どうしても付き合い続けなければいけない場合は、自分を殺してだいぶ相手に合わせる。しかしこれは大変ストレスが溜まるので、おそらく適度に思ったことは伝え、互いに多少の歩み寄りを期待して付き合っている。

 

しかし子供はどうだろう。私に歩み寄ることなんてまだできないし、忖度することもできない。おそらく親のストレスを軽減するために忖度しすぎる子供はそれはそれで心配もある。

 

また、子育ての辛さで思い当たるのは、私は自分に自信が持てない。自分の許せない部分が結構ある。子供は2歳ともなるとかなり人間らしい。それどころか、人間らしさを凝縮したような濃さで、ありのままをさらけ出している。そうなると、私自身が嫌だなと思っている部分を娘がちらほら出してきたりする。

その際私は、あ、これだ。と感じる。私は私を許していない部分があることで、つまり人に対して許せない部分を持っているということなのだ。かといって、2歳の娘と距離をおくことは難しいし、

「その部分ちょっとどうかと思うんだけど」ときつく追求しても解決はなかなかしない。

言ってもわからない、治してくれといっても治せないことがあるのだ。それは程度の違いであって、大人相手にもあることだろう。それぞれが自分の思いがあって自分を通して生きている。それを私の勝手な物差しや、基準で、こうしろああしろと言われたところで、

「いや、それやったところで私になんの得があるの? 」と普通はなるわけだ。

 

私が娘との付き合いを辛く感じるのも、私の勝手なんだなと思う。娘は娘の勝手で生きているのだ。

 

だが娘は私と付き合いたくないからといって付き合わない選択はできない。私を決して捨てることができないのだ。

 

私は娘と付き合っていきたいとやはり思っているので、娘に合わせることを学ばなければいけないのだろう。娘のキャンバスに何か外から勝手に描こうなどと思ってはいけないのだ。

娘は私の好き嫌いとは無関係に生まれてきて、選んでもいないのになぜか娘は私にとって好きな人になった。

だから、私は好きな人を性格や見た目などいろんなことで判断したわけではないのだ。娘についてはそうだ。

また、娘に何かを伝えたいと思ったら理想なんてものは押し付けられない。娘だって私の理想通りに生まれてなんてきていない。当然だ。

結局何か娘に言って聞かせられることとは、誰にでも通用すること、私が広くどんなことも受け入れた上で、ジャッジしない心で説明できることだけなんだ。

 

なんちゃって。