こひがしブログ

生きにくい日々を幸せに生きるため試行錯誤する記録

歩けば発達障害に当たる

先日、知人女性と、彼女の知り合いのやっているお店に飲みに行った。飲みに行ったといっても飲むわけではないのだけど(禁酒しているので)。

 

以前から、彼女より自信がADHDだということを聞いていて、その日もそんな話題が出た。また、彼女に渡そうと思って私のおすすめの書籍を持参していた。

ちなみにその本とは以下。

 

発達障害を仕事に活かす』星野仁彦(著)は、発達障害に関してかなりわかりやすく、自分の特徴を肯定的に受け止めることもできるため、当事者にとっては面白い。

 

『母がしんどい』田房永子(著)、ADHDとは関係のない本だが、彼女が以前より自分の自尊心の低さを悩んでいたのを聞いていたので、もし重なるところがあればヒントになるかと思った。単純にマンガエッセイで読みやすい。

 

『毒になる親 一生苦しむ子供』スーザン・フォワード(著)は、自己肯定感を育めずに大人になった人に、幼少期の困難な環境の影響を示唆し、当てはまる場合には有効な解決方法も提案されている。

 

『気づきのセラピー―はじめてのゲシュタルト療法』百武 正嗣(著)は、田房永子さんの別のエッセイの中で、ゲシュタルト療法というものに触れられていたことがきっかけで手に取ったもの。ひとつの手法として試してみたくなる。

 

私自身ADHDだが、それとは別にしても、自分の自尊心の低さに私は度々悩まされてきた。

これは私に限ったことではないし、発達障害の人だけの話ではないので、一般的な話の中にこそたくさんのヒントがあると気がついた。

 

お店で食事をしていると、彼女の知り合いであるマスターが、自分もいまの話を聞いていて、ぴんとくることがいくつもあると言う。

マスターは自分自身もなんらかの発達障害の傾向がありそうだと以前から思っていたし、自分の妻もその傾向があるのではないかと話していた。

彼自身に関しては、どのような点がそう思い当たるのかということについて突っ込んで聞いてはいない。

その代わり、彼の妻についての悩みを漏らしていた。

マスターの家庭にはお子さんがいるらしいのだが、まだ3歳の娘さんとマスターの妻が毎朝喧嘩をしているというのだ。

まるで20歳の娘に言うように、当然できるはずのことをなぜあなたはできないの? といった調子で声を荒げているのだという。

「なぜこぼすのか」

「なぜ準備ができないのか」

など、子育て中の家庭ならよく出てきそうなワードだが、

その場に居合わせるマスターいわく、異常な問い詰め方だというのだ。

自分はこのまま放っておくのはいけないと思いつつも、仲介に入ると余計彼女の怒りを助長することにもなるため、恐ろしくて存在感を消してしまうというのだ。

 

この話だけでは発達障害であるという裏ずけには全くならないし、そもそも私は専門家ではないのでわからない。

ただ、マスターの妻の心情、というかその行動は手に取るように想像できた。私は娘にそのベクトルは向いていないが、夫相手にはまさにマスターの妻のそれだ。

私の場合も、娘に対して牙をむくのも時間の問題と思って恐れ、それだけは避けるために日々試行錯誤している。まぁ、夫との喧嘩においても娘には十分恐ろしい思いをさせてしまっているのだが。

 

私はADHDのような病名などでカテゴライズすることには、メリットもデメリットもあると思うのだが、病名がつくという状況に至る確かに辛いことが、本人なり周囲なりにあるのだ。

そのことに蓋をし、自分をありのままに受け止められないと、生活や人間関係、体調に支障をきたす。

 

社会から身を守るために、カテゴライズしてしまうことで、自分をはじめてありのままに受け止めることができたりする。私の場合はそうだった。

診断をきっかけに、自分を見つめ、辛さを乗り越える機会を持つことができた。

 

ふと思うとカウンターを挟んだマスターと私の知人女性、そして私の3人は各々に発達障害、もしくはその可能性を抱えている者達だ。

また、3人いずれもサラリーマンでもなく、時間やルールに縛られた働き方をあまりしていないことに気がつく。

 

それがどうということはないのだけど。